眼球A面上の喧騒
ひじかけが二本、わたくしたちの間にはありました。
わたくしは助手席から凝視していました。
その目に街灯やヘッドライト及びテールライトや信号機、そして周波数を表示するカーステレオのバックライトが映えているのを、わたくしはただ、凝視していました。
旅はまだ終わらない
けれども愛は途絶えてしまいました。
けれども、人工照明は止まらない。
みなさん、どうも。
こんばんみ☆
芋虫こよしで仲良しこよし♪
イモムシです♪
萎びた芋が電熱線に照らされる季節になりました。
みなさまお変わりないですか?
鼻たれ小僧のみなさん
改めまして、こんばんみ☆
さてさて、みなさま
街はクリスマスモード
きらめく電飾が賑やかになって参りました。
照明は、夜の視界の明瞭化によって人間活動の領域を拡張するだけではなく、
空間演出のための装飾具としても用いられています。
昔は火でした。
そして白熱電球や蛍光灯、ナトリウムランプなどが出来ました。
そして現在
(コンビニエンスストアが突然明るくなったあの日)
発光ダイオード(LED)が台頭してきました。
照明にも歴史があるのです。
かつて照明とは間接的なものでした。
夜の公道に産み落とされた犬のフンを適切に処理するため、わたくしたちはビニール袋のなかに手を入れては、狙いを定めて手を伸ばし、それらを捉えたらば一心にビニール袋をひるがえすことで、フンそのもの触れることなくそれらを内部に引き入れようとしてきました。照明によってその位置を正確に知ることができたのです。
このようにもちろん、照明はそれ自体が見られるものではありませんでした(火は、それを見て落ち着く、ということもあったかもしれませんが)。
見たいのはあくまでも照らし出されたもの、フンなのです。
例えがお下品になってしまいました。
気をとり直してどうぞ・・・☆↓
わたくしが思うに人間には「物自体が発光すること」に対するあこがれがあるのではないでしょうか。
わたくしたちの頭上には☆☆が散りばめられた天空があります。
わたくしたちからすれば同一平面上に並んでいるかのように存在しているお☆様達は、種々様々な状況下の主人公らに仰ぎ見られることで、無数の物語の襞を含み込みながら時に弱弱しく、時に爛々と輝いてきました。
また、わたくしたちの認識は、自分にとってモニュメンタルな物が、視界のなかで、もしくは記憶のなかで「光っている」という印象を抱くことがあるでしょう。
わたくしたちは木に無数の電球を張り巡らしました。
そして、木を光らせた。
木を外側からライトアップするのではありません。
あたかもそれ自体が光っているかのように、枝や幹に電飾を這わせて、それを光らせたのです。
わたくしたちは今、照明それ自体を見ながら感嘆の声をあげます。
イルミネーションは平面ではありえないので、それらに囲まれ照らされながら、それらを見るのです。そしてその場を舞台にして愛を誓うのです。
照明は現代、至った技術で「こそ」の光を放っています。
みなさんが見つめるスマートフォンの液晶
わたくしが今まさに見つめているノートパーソナルコンピューターのディスプレイ
みなさまのとてもプリティなお目めに発光ダイオードが輝いています。
イモムシ